ホーム 芸能人プロフィール・現在 初代霧島一博の現在と現役時代の歩み:大関昇格の軌跡から陸奥親方としての歩みまで徹底解説

初代霧島一博の現在と現役時代の歩み:大関昇格の軌跡から陸奥親方としての歩みまで徹底解説

桜庭 結衣 桜庭 結衣 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
目次

2026年現在の相撲界および大相撲の歴史において、元大関・初代霧島一博(きりしま かずひろ)の名前は、独自の相撲哲学と筋肉質の体格を活かした取り口で今なお多くのファンや関係者の記憶に深く刻まれています。鹿児島県牧園町出身の吉永一美として生まれ、中学時代までの柔道経験を経て君ヶ濱部屋(のちの井筒部屋)に入門した彼は、いかにして最高位・東大関への道を切り開いたのでしょうか。本記事では、公式百科事典や信頼できる歴史的データを基に、現役時代の伝説的なエピソード、驚異的なトレーニングの背景、そして引退後の年寄・陸奥としての歩みまで、その詳細な経緯を解説します。

初代霧島一博の生い立ちと入門の経緯:牧園町の少年が角界へ進むまで

霧島一博

初代霧島一博は、1959年(昭和34年)4月3日に鹿児島県姶良郡牧園町(現在の霧島市)で農家の長男として誕生しました。幼少時から体を動かすことや鍛えることが好きで、そのストイックな気質はこの頃からすでに芽生えていました。小学校3年生の時には真冬でも頭から水をかぶって登校し、5年生からは重さ3kgもある鉄下駄を履いて生活するなど、並み外れた子ども時代を過ごしています。

もともとはサッカーが好きだったものの、中学校にサッカー部がなかったため、最初は野球部に入部。その後、中学2年生の時に柔道部に転向しました。この転向が大相撲への素地を作る契機となり、中学生在学中に柔道二段を取得し、地区大会で優勝した実績も残しています。こうした身体能力の高さに注目したのが、君ヶ濱親方(元関脇・鶴ヶ嶺、のちの14代井筒)夫妻でした。牧園町の自宅へ直接勧誘に訪れた際、最初は断ったものの、母親の後押しと反対していた父親の説得を経て、中学卒業後に君ヶ濱部屋(入門時は君ヶ濱部屋、のち井筒部屋)への入門を決意しました。

当時、2つ上の姉は痩せっぽちだった吉永を見て「絶対に相撲ではやっていけない」と見込みがないと感じていたと言いますが、本人の並外れた向上心と相撲に対する執念が、その予想を大きく覆すことになります。

初土俵から改名、そして肉体改造:ウェイトトレーニングで切り拓いた道

1975年(昭和50年)3月場所に本名の「吉永一美」で初土俵を踏んだ霧島は、同期生にのちの大関若嶋津、関脇太寿山、師匠の長男である十両鶴嶺山らを抱える黄金世代の一人でした。序二段時代の1976年(昭和51年)5月場所後には、故郷の霧島山にちなんで四股名を「霧島」へと改めました。

当時の大相撲界ではウェイトトレーニングに対する見方が現在ほど一般的ではありませんでしたが、霧島は三段目から積極的にウェイトトレーニングと高蛋白食を取り入れました。これにより、軽量でありながら上位陣とも互角に渡り合える筋肉質の体格を作り上げることに成功しました。得意手としたのは左四つであり、両前廻しを引き付ける取り口や、左右どちらの四つでも、また上手・下手問わず鋭く決まる「出し投げ」は彼の代名詞となりました。また、抜群の足腰を活かした鮮やかな「うっちゃり」や、左四つからの豪快な「吊り」も観客を大いに沸かせました。

一方で、攻めの遅い力士に対してはめっぽう強かったものの、軽量ゆえに速攻を仕掛ける力士や突き押し相撲を得意とする相手には苦戦を強いられる場面もあり、出世のスピードは決して平坦なものではありませんでした。

【霧島一博】の主要経歴・実績一覧テーブル

初代霧島一博の歩んできた主な経歴や、歴史的背景を分かりやすく整理するため、以下の対照表にまとめました。

時期・年代 主な出来事・転換点 詳細・補足情報
1959年4月3日 誕生 鹿児島県姶良郡牧園町(現・霧島市)出身。本名は吉永一美。
1975年3月場所 初土俵 本名で初土俵を踏む。同期には大関若嶋津や関脇太寿山らが在籍。
1976年5月場所後 「霧島」へ改名 序二段時代に故郷の霧島山にちなんで改名。
現役中 自叙伝の出版 日本相撲協会の了承を得て半生を綴った本を発売。異例の試みとなる。
1997年 海外教材への採用 仏語版『ある力士の自叙伝』がフランスの大学で日本語教材として採用される。
現在 年寄・陸奥としての活動 現役引退後は指導者・年寄(陸奥)として後進の育成に尽力。

異例の自叙伝出版とフランスの大学教材採用:相撲界の枠を超えた影響力

霧島一博を語る上で欠かせない特筆すべきエピソードが、現役時代に出版された自叙伝の存在です。子供時代から引退直前までの半生を自ら語ったこの著書は、現役力士が日本相撲協会の了承を得て執筆・発売するという当時としてはきわめて珍しい試みでした。霧島自身も著書の中で、日本相撲協会に対する深い感謝の意を述べています。

さらに特筆すべきは、この著書が1997年にフランスの大学で日本語教材として採用された点です。いち日本人力士の自叙伝が海外の学校教育現場で採用されるのは極めて異例の出来事でした。フランス語版は『ある力士の自叙伝』というタイトルで出版され、相撲文化に馴染みのない現地の読者でも内容を完全に理解できるよう、詳しい解説と注釈が丁寧に盛り込まれていました。これにより、霧島の半生や大相撲の精神性が海を越えて広く知られることとなりました。

現在の活動と「初代霧島」と呼ばれる理由:弟子たちへの継承

現役を引退した後の霧島は、日本相撲協会の年寄・陸奥として後進の指導に尽力しています。相撲界においては、後に登場する同名の力士や弟子の存在などとの混同を防ぐため、あるいはその歴史的な功績を称えて「初代霧島」と呼ばれることが多くあります。

幼少期からの過酷な自己鍛錬に始まり、ウェイトトレーニングによる肉体改造、そして大関という番付への到達に至るまで、彼の相撲人生は「弛まぬ努力と工夫の歴史」そのものでした。現代の相撲界や若い世代の力士たちにとっても、軽量というハンデを乗り越えて独自の技術と筋肉質の体を作り上げた彼のスタイルは、大きな示唆に富んでいます。

【霧島一博】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:霧島一博の本名や出身地はどこですか?
A1:本名は吉永一美(よしなが かずみ)で、出身地は鹿児島県姶良郡牧園町(現在の霧島市)です。

Q2:現役時代の最高位や得意手は何でしたか?
A2:最高位は東大関です。得意手は左四つ、寄り、吊り、出し投げ、そして鮮やかなうっちゃりでした。

Q3:著書が海外で教材になったというのは本当ですか?
A3:本当です。現役中に執筆した自叙伝が1997年にフランスで『ある力士の自叙伝』として出版され、大学の日本語教材に採用されました。

ここまで、初代霧島一博の生い立ち、現役時代の独自の鍛錬法、数々の実績、そして自叙伝にまつわるエピソードを詳しく見てきました。幼少期から雪の中でも水をかぶり、鉄下駄を履いて体をいじめてきた少年時代から、大相撲の世界で東大関へと上り詰めたその軌跡は、単なる体格の優劣を超えた「知恵と執念の勝利」を物語っています。

ウェイトトレーニングの早期導入や、相撲界の枠を超えた文化的な発信力など、霧島一博が残した足跡は日本相撲の歴史において貴重な財産です。25年以降も語り継がれるその不屈の精神と相撲道は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれるといえます。

同じカテゴリの記事

桜庭 結衣
トレンドリサーチャー 桜庭 結衣
プロフィールを見る →

アイドルグループと音楽シーンの取材を担当。公式サイトのスケジュール、リリース情報、公開チャートを照合し、卒業や加入などの発表は必ず公式アナウンスの文面に沿って整理します。

おすすめの関連記事